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石上純也講演会
レモン&イソベと品川で待ち合わせ、夕方からTN プローブ・石上純也講演会を聴きに行く。インタビュアーは五十嵐太郎氏。石上氏には個人の実作がひとつもないのだけど、会場には学生や若い世代を中心に500名以上の人が集まったそうで、その様子は彼に向けられている関心の大きさをそのまま物語っていた。

会場の熱気はむんむんで、まるでちょっとしたライブ・ハウスにいるかのようだった。会場内のボルテージは講演の開始時間が近づくにつれどんどん増していき、石上氏が五十嵐氏に連れられて壇上に現れたときには、もはや爆発寸前までに達していた。もしも、石上氏が開口一番、観客席に向かって拳を突き上げていたなら、会場には割れんばかりの怒号が渦巻いたことだと思う。

講演会は、石上氏の修士設計である「光の研究」からはじまった。これは「本当に透明なものとは?」という研究で、ガラスが持つような「透明度」ではなく、「透明性=なにもないこと」を問題にしていて、光の対流が生み出す光と闇の境界により空間を分節化していくという内容だった(詳しくは『卒業設計で考えたこと。そしていま〈2〉』を参照)。その中で驚いたことは、その透明な境界が鑑賞者の位置によって相対的に変化していくということだった。それは、ひとつの建築の中に無数の異なる空間が同時に存在し、ある秩序(構造?)を形成しているということ。つまり、空間が先験的に存在してそこに観測者の視点が設定されるのではなく、観測者の視点があって空間が存在し、しかもそれは観測者の運動の中において発生していくことを意味している。五十嵐氏の「建築の問題提起・前提条件の在り方が近代と異なっている」という指摘は、まさにその通りである。講演会の冒頭から何か透明なトンカチで後頭部をがつーんと激しくぶたれたような衝撃を受ける。

その後は、厚さ3mmの「レストランのテーブル」や、キリンアート2005に出品した「テーブル」、霧を使って建築の中を風景化するというレクサスのインスタレーションや、そこで用いた発砲スチロールの家具、月島の長屋プロジェクト、つくばスタイルコンペ案、TEPCOコンペ案、ホテルの改修計画、神奈川工科大の工房、Yoji YAMAMOTOのNY店の計画案と続いていく。

講演会の中で印象的だったのは、石上氏が「今わかっていることは」というフレーズを頻繁に用いていたことだった。それは、最初にある目標を設定して設計を進めていくという従来のやり方ではなく、他人はもとより本人でもわからないことをひたすら追い求めていくというボトムアップ的なつくり方を暗にほのめかしている、といえるのではないだろうか。その先に、今までの言語では語ることができないような新たな建築の地平が広がっているのかは、よくわからない。ただ、今回の講演会でひとつわかった確かなことは、石上氏は確かにアート寄りに見えなくもない表現を用いているが、決してアートをつくっているのではなく、あくまで建築をつくろうとしているということだった。石上氏の設計態度は、個人の表現ではなく、あくまで社会に向けられた表現であった。言うまでもなく、そこには決定的な差がある。

もうひとつ印象に残ったのは、神奈川工科大の工房のプランの決定方法をめぐる質疑の中で、石上氏が「フラットバーを配置していく中で方向性はある、発見しつつあるが、それはゴールへの方向性ではない。ゴールを設定してそこに向かっていくつくり方ではない。ループを繰り返してその中で何かを磨き上げていく。ループはループに近づけば近づくほどよい。」という発言をした場面だった。思考のループ化。それはいわゆる「どうどう巡り」と言われて通常はネガティブに捉えられるものだが、石上氏はむしろループ化する方がいいと述べている。思考の時間軸が円環状になったときには一体何が起きるのだろうか。円環状の時間を考えるとき、「流れる今」をイメージすることは無意味になる。初期条件を設定し、線形的に発展していく古典論的な手法は、円環状の時間に対しては修正を余儀なくされてしまう。いわゆる近代的なもののつくり方ではないのだ。それはいったいどういうことなのだろうか?また、単なることばの揚げ足取りに過ぎないのだけど、そのループの外側や内側には何が存在するのか?そのループのモーメントはどこに向かって進行しているのか?あるいは、石上氏が「拠って立つ場所」は一体どこなのか?などなど、さまざまなことが頭の中に浮かんでは消えていった。それは講演会が終わってここに文章を書いている現在においても、答えは見つかっていない。
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by tzib | 2006-08-31 23:31 | architecture
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