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カテゴリ:resource( 82 )
釘子戸
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JMM『大陸の風−現地メディアに見る中国社会』第95回「牛!」より(写真はこちらより)

似たような状況は見たことがあるけど、さすがにこれはすごい。トマソン北京版だ。

この写真のタイトルにある「牛(ニウ)」は「かっちょええ〜」というニュアンスの言葉で、辞書を引いても載っていない。しかし、昨今中国にやって来る外国人留学生たちがまず覚える言葉の一つだ。ちなみに、80年代に中国を初体験した我われの世代が最初に直面した言葉は「没有〜ないよ」だった。当時の中国はモノがない時代だったのだ。「釘子戸」とは、写真と漢字で想像がつくだろう、立退きを拒否して五寸釘のようにど〜んとそこに屹立した建物のことだ。つまり、冒頭にご紹介した写真は「史上最もかっちょええ立退き拒絶住宅」と、あれよあれよとあちこちでコピーされ、ネットの世界のみならず、新聞、テレビへと波及して、果ては海外マスコミまで多くの人々の視線を「釘」付けにした。(MM本文より)


最近、所有権についてよく考える。法律上、「すべては共有(帰属)されている」という中国の状況の中にいると、モノの存在感が否応でも際だってくる。「モノ」社会の日本で暮らしていたときは、思いもしなかったことだなと思う。
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by tzib | 2007-04-02 15:07 | resource
都市の建築
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アルド・ロッシの『都市の建築』を読了。難解かつ読み難い文体で、読後はこめかみの辺りがズキズキとする。それでも示唆的な内容が大変多くて、はっとさせられる箇所は少なくなかった。本の内容はprof.Fの解説が詳しい。

これはその名のごとく都市論であるが、それは同時に都市を成り立たせる要素として建築を見るという、新しい視点からの建築論でもある。そしてその過程で、モダニズムの主導理念であった「機能主義」Functionalismを批判し、都市の歴史と永続性を重視するのであるが、その永続性を保証する要素として、クァトルメール・ド・カンシィの唱えた「タイプ」としての都市建築のあり方を再評価し、また都市の歴史を保存し伝えるものとしてモニュメント(歴史的建造物)の役割を強調しているという点で、モダニズムの素朴な進歩主義に対する根底からの重厚な批判となっている。

都市「の」建築を類型学によって捉える方法は、直接的な創作のエンジンにはならないのかもしれない。けれど、少なくとも個人的には、社会的な機能からアプローチする方法よりは可能性があるような気がする。ぼくたちの身の周りにはその「悪しき機能主義」(と言ってしまうけど)で説明された建築が数あまた存在する。そのどれもが退屈で陳腐に見えてしまうのは、決してぼくだけではないはずだ。
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by tzib | 2006-11-07 23:07 | resource
Essence of life
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最近、毎日のようにSOTTE BOSSEの『Essence of life 』を聴いている。某ショップで偶然耳にしたCDなのだけど、一瞬で心を奪われてしまった。おかげで、当然のようにi-depにもはまってしまう。
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by tzib | 2006-11-04 23:04 | resource
アルヴァ・アアルト
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アルヴァ・アアルト』を再読。最近、なぜかアアルトが気になって仕方ない。あの曲線、あの断面構成、あの屋根勾配…寝ても覚めてもアアルトって感じまではいかないが、何かに取り憑かれてしまったようだ。まさか修制でレンガとか使ったりしないだろうな…
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by tzib | 2006-11-03 23:03 | resource
歴史と風土の中で
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歴史と風土の中で 山本学治建築論集1』を読了。技術論を中心に展開された建築史論。本についての解説は、稲葉武司のあとがきが詳しい。

 彼の論文の系譜を別な側面からみると、その視点を一貫しながら、初期には大局的な歴史、そして部分・素材へと視線を移していった流れがみえる。そして最後の「木による日本の建築はどんな特徴があるのだろう」では、和辻哲郎の『風土』を引用しながら、少年達に日本の風土とか伝統に対する再認識を説いている。これは単なる懐古趣味ではない。建築、部分、素材と近代建築を点検してきた彼は、その論述活動の後半で、それまでの抽象的な近代への視線を具体的な近代へ移したのである。つまり、欧米的な近代建築を超えて、我々自身が世界の現代建築に新しい道を拓く基本作業の探査である。

これを機に、「風土的負荷のもとで生きる」ということばについて、じっくりと腰を据えて考えてみよう。
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by tzib | 2006-10-19 21:27 | resource
建築依存症
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建築依存症』を読了。安部氏の建築にかける情熱が、全編を通してひしひしと伝わってくる。けれどそれは、暑苦しいものではなくて、むしろ突き抜けるような爽やかさである。「すべてが建築である」ということばは、安部氏をして語れるセリフだろう。下記の引用部分は印象的で、すごく示唆的だった。

 そうであるとするならば現代、そして未来における土着性をローカリズムの中に見い出すことはすでに無意味であろう。土着性という言葉自体の意味が変わろうとしているのかもしれない。土着性とは文字の通り土地もしくは場所に根ざした価値観である。これを地域性と理解するのではなく環境と身体の関係性と考えれば現代的な意味を持った言葉となるのかもしれない。場所の特殊性や固有性を体験した時の身体的な感覚。幾重にも組み合わされることの可能な記憶の中の情報を整理し再構築する。するとそこには視覚と触覚の組み合わせによって蘇ったもうひとつの空間が浮かび上がる。身体と環境の間に柔らかい殻のような建築が姿を表すだろう。

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by tzib | 2006-10-18 23:18 | resource
つくりながら考える・使いながらつくる
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つくりながら考える・使いながらつくる』を読了。対話形式なので、すごく読みやすかった。とくに邑楽町役場のコンペについての議論は、今読んでみるといろいろな意味で興味深い。彼はデザイナーではなく、やはり建築家なのだ。
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by tzib | 2006-10-16 23:16 | resource
路上観察学入門
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先日の『超芸術トマソン』に続いて『路上観察学入門』を読了。都市の考現学。モノの観察と記録。情報が氾濫する都市の中で、いかに一次資料が重要かということを示唆している。
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by tzib | 2006-10-15 23:15 | resource
中野本町の家
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中野本町の家』を読了。ひとつの住宅を巡る家族の物語。名建築には心に響くドラマが存在し、その逆もまた然りなのだ。伊東豊雄が巻末に寄せた「住宅の死をめぐって」というエッセイの冒頭文が印象深い。

目前でそれは無残に打ち砕かれ、みるみるうちにコンクリートの瓦礫の山を築いていった。自ら設計した建物が消滅する姿に建築家は立ち会ったことがあるだろうか。

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by tzib | 2006-10-14 23:14 | resource
押井守『パトレイバー』についてのインタビュー
宮台真治のブログに押井守評がアップされた。押井守やサブカル系に興味のある人は、おすすめです。賛否両論あるみたいだけど、ぼくは肯定派。経験的に賛同できる部分が多い。個人的には、キャラクターのコスチュームの変化を追っていくと、「大世界の中の陳腐な日常」の表徴や「虚構の現実化」などが、具体的に明らかになると思う。それが「建物」でないところが、すごく残念ではあるけれど。10代の頃を振り返ってみると、虚構の中に現実の未来の「可能性」を見出したり、現実の中に虚構の世界の「拡張性」を探し出したり、そんな匂いの断片を一生懸命探した時期があったなと懐かさを覚える。虚構の世界に原風景があると言われるぼくたちの世代にとって、それらはごく自然な行為だったのだ。

SFは未来が舞台です。でも未来への関心が中心ではない。現実社会が持つ様々な問題の萌芽が育ったものとして未来を見る。ある萌芽が育つとあんな未来、この萌芽が育つとこんな未来。関心の焦点は萌芽を内蔵する現在の社会なのです。萌芽が、自己増殖的な科学技術にあるのか、エゴイスティックな人間存在にあるのか、科学技術的風景が変える人間の感受性にあるのかで、ハードSFかファンタジーSFかニューウェイブSFが分かれるわけです。

実はここに、社会学者の見田宗介さんのいう「夢の時代」から「虚構の時代」への転換点があります。見田さんは敗戦から1960年までを「理想の時代」。1960年から1975年までを「夢の時代」。1975年以降を「虚構の時代」と呼びます。僕の『サブカルチャー神話解体』での図式では「理想の時代」は「〈秩序〉の時代」。「夢の時代」は「〈未来〉の時代」。「虚構の時代」は「〈日常〉の時代」です。時代が変わると問題設定が変わります。どうやって理想の〈秩序〉を樹立するか。どうやって夢の〈未来〉を樹立するか。どうやって生きうる〈日常〉を樹立するか。ということですね。
 それぞれの時代には「喪失の記憶」があります。理想の〈秩序〉を喪失したという意識と、それを埋め合わせる夢の〈未来〉を獲得しようという意識は表裏一体です。〈未来〉を喪失したという意識と、それを埋め合わせる〈日常〉を獲得しようという意識は表裏一体です。ちなみに「松本零士的なもの=『ヤマト』的なもの=大世界のロマン」への“反発”から「高橋留美子的なもの=友引町&一刻館的なもの=小世界の戯れ」が持ち出されるというサブカル進化の経緯も、〈秩序〉や〈未来〉から〈日常〉へという流れの一貫です。
 その直後に、大友克洋的=押井守的な「大世界の中の陳腐な日常」という再帰的な“言い訳”が生まれます。ことほどさように「〈日常〉の時代」には「〈未来〉の喪失の記憶」がありました。「〈未来〉の時代」に「〈秩序〉の喪失の記憶」があったのと同じです。ところがこうした「喪失の記憶」が90 年代後半になると消えます。だから東浩紀さんは「虚構の時代」の後に「動物の時代」を置く。僕の区分では「〈秩序〉の時代」も「〈未来〉の時代」も「〈日常〉の時代」も、「喪失の記憶」や「断念の記憶」に基づいた区分なので、これらと同格に95年以降の時代を名指せない。あえて言えば「〈忘却〉の時代」です。

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by tzib | 2006-10-13 23:13 | resource
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