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レモン展/内藤廣講演会
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夕方から明治大学アカデミーコモンで開かれた特別講演会を聴講。

講師は内藤廣氏で、テーマは「建築・社会・人間をどう考えるか」。講演の内容は、内藤廣と磯崎新の30年ぶりの対談から飛び出したという「70年代と00年代は重なるのでは?」という仮説に基づいて進行し、内藤が学生時代や所員時代を過ごした70年代と、それらの時代に関わった9人の建築家について解説していき、その中から「建築・社会・人間をどう考えるか」というテーマに対しての、何らかのヒントが浮かび上がればという構成だった。

まずは、内藤自身による70年代の背景と学生時代についての解説から始まる。内藤が早稲田大学に入学した70年代初めは、5月革命に端を発する学生運動がまだ続いていた時代で、大学は完全にロックアウト状態。いたるところにイデオロギーが蔓延し、建築もその延長として捉えられ、とてもではないが建築を学べる状況ではなかったという。また、ベトナム戦争反対運動、安保闘争、安田講堂占拠、三島由紀夫の割腹自殺、大阪万博、ウォーターゲート事件、ロッキード事件、オイルショック(これは最近の原油高に似ている)、環境問題(これも70年代当時から騒がれていた)など時代を揺さぶるような事件が次々に起き、内藤自身もその得体のしれない力に突き動かされるかのように、2ヶ月に1度大学の授業をつぶしては、反建築派?の人物を呼んで「建築に未来はない」「組織事務所は堕落している」「プレハブに価値はない」…など声高らかに「建築の解体」を叫んでいたというエピソードなどが披露された。

その数々の事件の中でも、とくに安田講堂占拠と大阪万博が時代の変曲点だったのでは、と内藤は語る。69年の安田講堂占拠は、アジールである大学に政治力が介入し、大学本来がもつ「自由」の意味が失われてしまった象徴的な事件として、また、70年の大阪万博は、日本が現在の商業国家へと至るまさしく踏み絵に他ならなかった「事件」として非常に重要だったという。これらの発言に関しては、とくにことばを慎重に選んでいたように見受けたし、決して是非を問うようなものでもなかったが、内藤の眼は会場をじっと見据え、ぼくたちがそこから何を捉え、何を考えるのか見定めているかのような印象を受けた。また、この時代のマスターピースとして、『空間へ』や「きみの母を犯し、父を刺せ」などの磯崎新の一連の文章があるが、これらの文章は、今でも、いや今だからこそ読む価値があるのではとも述べていた。

ここから講演会は後半に移り、内藤の70年代に影響を与えた9人の建築家についての解説がはじまる。

1人目は、山口文象について。山口文象は戦前の日本建築史を語る上で非常に重要な人物だが、驚いたのは、実は内藤とは非常に親しい間柄だったという発言だった。というのも、山口は内藤の母の実家のお隣さんで、内藤とは小さい頃から顔見知りだったというのだ。内藤は大学に入学してから山口の名声をはじめて知り、「建築を教えてくれる優しいおじいさん」とのイメージのギャップに驚いたと明かし、「ぼくは人間関係に恵まれている」と自嘲気味に語っていた。山口はマルクス主義に傾倒していた建築家で、当時の社会に対してひどく憤慨し、建築家批判をよく繰り返していたらしい。それを端的に表しているのが「前衛建築家の宙返り」という文章で、時代の流れに合わせてスタイルの転向を繰り返す建築家に信念があるのか?このままだと建築は時代に必要とされなくなり信用されなくなると、半ば自省を込めながら、そこで山口は痛切に語っているという。内藤は当時を振り返りながら、山口に言われた印象深い言葉を会場に向けて語りかける。「若いときには自分の核になるような信念を見つけろ。それはどうすれば見つかるのか?絵画、彫刻、音楽、本、とにかく何かを信じるしかない。そしてそこで重要なのは、それを徹底的につかみ、勉強し、徹底的に破壊することだ。あとはとにかく真剣に『遊べ』。大学で教わるのは建築の5%でしかない。その他は社会から学ぶしかない。大学は動機づけしかしてくれないのだ。また、『遊ぶ』といっても道楽をすることではない。『遊ぶ』とは芸術・思想・哲学の最高のものに触れて精神そのものを鍛えることだ。間違っても建築の本など読んではいけない。」

2人目は鈴木恂について。鈴木恂は、GAギャラリーの設計者といえば、建築学科の学生にはなじみ深い建築家だ。鈴木とは、学生時代に鈴木の事務所でバイトをしていた経緯で親しい間柄になったという。日本におけるコンクリート打ち放しの表現は、実は鈴木が最初で、安藤忠雄は鈴木を超えようとして今がある。また、鈴木の最高傑作の一つは「SIH」であると述べていた。

3人目は、吉阪隆正(吉阪隆正については、以前書いた5/22のブログを参考)。吉阪は内藤が20代に出会った最大の人で、大学時代の指導教授でもあった。吉阪は、建築や都市を考えるときに、まず「人」から考える建築家で、礼儀に厳しく個性を尊重し、そこにいるだけでその場の雰囲気を変えてしまうような、圧倒的な存在感の持ち主だったという。また、コスモポリタンな人物でもあり、人と人とのコミュニケーションは、カタチを媒介にすれば可能なのでは?と考えていたらしい。内藤は吉阪とのエピソードを語りながら、「ことば」に関して吉阪が述べたセリフを語る。「若者も自分で考え、自分のことばで書くようにしろ。何を言っても構わないが、言い放ったらそのことばには責任を取れ。」

4人目は、渡邊洋司。渡邊は吉阪研に所属し、吉阪の信奉者であり、ズバ抜けた造形力を持った建築家であったと内藤は解説する。内藤は1度、渡邊の寝室に上がらせてもらった機会があり、そこに飾ってあったヨロイとヤリを説明しながら渡邊が語ったセリフが、そのまま彼自身を顕著に表していることばだと述べる。「これがどういうことかわかるか?君たちは『文』としての建築を学んでいる。実は、建築には『武』としての力もあるのだ。」内藤は最後に、「アメリカの大学の研究費の30%は軍事関係の研究であることを、みなさんには考えてほしい」と結んだ。

5人目は、西沢文隆。西沢は「住吉の長屋」を一番最初に評価した人物だったという。内藤が独立するとき、西沢に言われた忠告が今でも忘れられないと語る。「建築には力を入れれば入れるほどいい。あらゆる人的力を導入し、全力を注ぎ込め。食えるところギリギリでやっていないと、それはウソだ。」

6人目は、高橋てい一。高橋はものづくりの人で、磯崎新に代表されるような形而上学的な時代の中、あくまで形而下の人であり、「大阪芸術大学塚本英世記念館/芸術情報センター」は、70年代を代表する傑作のひとつだったと、内藤は評価する。

7人目は、宮脇壇。宮脇は住宅作家として知られている建築家。内藤は、宮脇のユニークな人柄を語りながら、こう分析する。「宮脇は住宅は食が中心にあり、食卓こそ住宅のすべてであると考えていた節がある。そのキャラクターに反して、彼ほど住宅をシリアスに捉えていた建築家はいなかったのではないか。」

8人目は、フェルナンド・イゲーラス。所員時代のエピソードを語りながら、内藤はイゲーラスをある種の天才だったと評価する。イゲーラスは、A4の紙の中に原寸図面が書けるのではないかと思えるかのような、圧倒的な情報量を書き込めるという才能を持ち、すさまじい直感力に溢れ、我々凡人が日々努力を積み重ねていっても、決してたどり着くことができない「先」に軽々と手を伸ばすことができた。だが、それ故なのか、「政治力」にはまるで乏しく、建築家としては失敗してしまった人物だったという。

最後の9人目は、菊竹清訓。事務所での所員時代には、菊竹からは既成の枠組みを排除すること、また、ひとりで考えていることは、小さいことであるということを教わったという。

9人すべての建築家について語り終えたあと、内藤は最後に会場に向かって静かに語りかけ、満場の拍手の中講演会は終了する。「自分は凡庸な学生だったし、スターになりたいとは決して思わなかった。大事なことは、流行を追いかけたり、かっこいい模型や図面を書いたり、器用にカタチをつくることではない。卒制を見ていればわかるが、そんなものはすぐに消えてしまう。表現とは、何かを本質的に考え、向き合うことから始まる。現在は、70年代と同じように文化的停滞の時代でテーマが見つけ難い時代だが、停滞を抜け出すべく信念や思想を持ってすれば、それは容易に可能である。」
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by tzib | 2006-05-30 23:30 | architecture
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