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都市の建築
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アルド・ロッシの『都市の建築』を読了。難解かつ読み難い文体で、読後はこめかみの辺りがズキズキとする。それでも示唆的な内容が大変多くて、はっとさせられる箇所は少なくなかった。本の内容はprof.Fの解説が詳しい。

これはその名のごとく都市論であるが、それは同時に都市を成り立たせる要素として建築を見るという、新しい視点からの建築論でもある。そしてその過程で、モダニズムの主導理念であった「機能主義」Functionalismを批判し、都市の歴史と永続性を重視するのであるが、その永続性を保証する要素として、クァトルメール・ド・カンシィの唱えた「タイプ」としての都市建築のあり方を再評価し、また都市の歴史を保存し伝えるものとしてモニュメント(歴史的建造物)の役割を強調しているという点で、モダニズムの素朴な進歩主義に対する根底からの重厚な批判となっている。

都市「の」建築を類型学によって捉える方法は、直接的な創作のエンジンにはならないのかもしれない。けれど、少なくとも個人的には、社会的な機能からアプローチする方法よりは可能性があるような気がする。ぼくたちの身の周りにはその「悪しき機能主義」(と言ってしまうけど)で説明された建築が数あまた存在する。そのどれもが退屈で陳腐に見えてしまうのは、決してぼくだけではないはずだ。
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by tzib | 2006-11-07 23:07 | resource
アルヴァ・アアルト
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アルヴァ・アアルト』を再読。最近、なぜかアアルトが気になって仕方ない。あの曲線、あの断面構成、あの屋根勾配…寝ても覚めてもアアルトって感じまではいかないが、何かに取り憑かれてしまったようだ。まさか修制でレンガとか使ったりしないだろうな…
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by tzib | 2006-11-03 23:03 | resource
歴史と風土の中で
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歴史と風土の中で 山本学治建築論集1』を読了。技術論を中心に展開された建築史論。本についての解説は、稲葉武司のあとがきが詳しい。

 彼の論文の系譜を別な側面からみると、その視点を一貫しながら、初期には大局的な歴史、そして部分・素材へと視線を移していった流れがみえる。そして最後の「木による日本の建築はどんな特徴があるのだろう」では、和辻哲郎の『風土』を引用しながら、少年達に日本の風土とか伝統に対する再認識を説いている。これは単なる懐古趣味ではない。建築、部分、素材と近代建築を点検してきた彼は、その論述活動の後半で、それまでの抽象的な近代への視線を具体的な近代へ移したのである。つまり、欧米的な近代建築を超えて、我々自身が世界の現代建築に新しい道を拓く基本作業の探査である。

これを機に、「風土的負荷のもとで生きる」ということばについて、じっくりと腰を据えて考えてみよう。
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by tzib | 2006-10-19 21:27 | resource
建築依存症
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建築依存症』を読了。安部氏の建築にかける情熱が、全編を通してひしひしと伝わってくる。けれどそれは、暑苦しいものではなくて、むしろ突き抜けるような爽やかさである。「すべてが建築である」ということばは、安部氏をして語れるセリフだろう。下記の引用部分は印象的で、すごく示唆的だった。

 そうであるとするならば現代、そして未来における土着性をローカリズムの中に見い出すことはすでに無意味であろう。土着性という言葉自体の意味が変わろうとしているのかもしれない。土着性とは文字の通り土地もしくは場所に根ざした価値観である。これを地域性と理解するのではなく環境と身体の関係性と考えれば現代的な意味を持った言葉となるのかもしれない。場所の特殊性や固有性を体験した時の身体的な感覚。幾重にも組み合わされることの可能な記憶の中の情報を整理し再構築する。するとそこには視覚と触覚の組み合わせによって蘇ったもうひとつの空間が浮かび上がる。身体と環境の間に柔らかい殻のような建築が姿を表すだろう。

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by tzib | 2006-10-18 23:18 | resource
つくりながら考える・使いながらつくる
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つくりながら考える・使いながらつくる』を読了。対話形式なので、すごく読みやすかった。とくに邑楽町役場のコンペについての議論は、今読んでみるといろいろな意味で興味深い。彼はデザイナーではなく、やはり建築家なのだ。
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by tzib | 2006-10-16 23:16 | resource
路上観察学入門
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先日の『超芸術トマソン』に続いて『路上観察学入門』を読了。都市の考現学。モノの観察と記録。情報が氾濫する都市の中で、いかに一次資料が重要かということを示唆している。
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by tzib | 2006-10-15 23:15 | resource
中野本町の家
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中野本町の家』を読了。ひとつの住宅を巡る家族の物語。名建築には心に響くドラマが存在し、その逆もまた然りなのだ。伊東豊雄が巻末に寄せた「住宅の死をめぐって」というエッセイの冒頭文が印象深い。

目前でそれは無残に打ち砕かれ、みるみるうちにコンクリートの瓦礫の山を築いていった。自ら設計した建物が消滅する姿に建築家は立ち会ったことがあるだろうか。

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by tzib | 2006-10-14 23:14 | resource
超芸術トマソン
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Photograph by tin-zo. Creative Commons Some rights reserved.
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超芸術トマソン』を読了。「都市に『トマソン』という幽霊が出る。人びとはその幽霊に気づかない。」なかなか衝撃的な出だしではじまる本書は、言わずもがな、一時代を築き上げた伝説の名著である。

トマソン、もしくは超芸術トマソンとは、赤瀬川原平らの発見による芸術上の概念。不動産に付着していて美しく保存されている無用の長物。創作意図の存在しない、視る側による芸術作品。マルセル・デュシャンの『レディ・メイド』の方法に、日本古来の『見立て』『借景』を取り入れたものと見ることもできる。(Wikipediaより)」はじめてトマソンを知ったという方は、今からでも遅くはない、急いで本書を手に取って読んでみるか、さもなくば、急場しのぎではあるがトマソン・リンクを参照してもらいたい。もしもあなたが建築学科の学生ならば、それはなおさらである。この本の偉大さは、「経験」してもらわないと決して伝えるできない。「百聞は一見にしかず」とはまさにこのことである。都市とは?芸術とは?この本がもつ批評性の射程は、人類史が続く限りどこまでも拡大していく。

路上観察学や超芸術トマソンの面白さは、このような見立てを通じて、都市に奇妙な「名所」をつくりだすところにあった。屈折してはいるが、それは都市全体の合理性・機能性を黙認したうえで、記号論的なゲームにより、東京に新しい解読の可能性を与えようとした営みだったのである。そこでは人為的な意図が排除された結果として、トマソン的物件の誕生も消滅も、都市という巨大な自然現象の一環と見なされていた。このような都市観のもとでは、破壊への意志も、保存への意志も生まれようがない。路上の探偵たちはフェティッシュめいたがらくたを収集することで、都市に対する自分たちのそんな不能性を購っていたのである。(田中純『都市の探偵たち ―東京論の困難をめぐって―』批評空間より)

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by tzib | 2006-10-12 23:12 | resource
空間の経験—身体から都市へ
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空間の経験—身体から都市へ』を読了。「人間にとって空間とは何か?それはどんな経験なのだろうか?また我々は場所にどのような特別の意味を与え、どのようにして空間と場所を組織だてていくのだろうか?幼児の身体から建築・都市にいたる空間の諸相を経験というキータームによって一貫して探究した本書は、空間と場所を考えるための必読図書である(『BOOK』データベースより)。」

イーフー・トゥアンは、空間(space)と場所(place)を「場所すなわち安全性であり、空間すなわち自由性である。つまり、われわれは場所に対しては愛着をもち、空間には憧れを抱いている」と説明する。全体的に難解でもう一度じっくりと読み返す必要があるが、今後のために印象的だった箇所をいくつか抜き出しておきたい。

論理的に考えれば、宇宙の中心は一つしかないはずである。しかし神話的思考では、宇宙は数多くの中心をもつことができる(ただし、そのうちの一つが他のすべての上に立つということはある)。論理的に考えれば、全体というものは部分が集まってできており、部分部分は独自の位置、構造、機能をもっている。部分は全体が機能を果たすうえで不可欠なものであるかもしれないが、しかし、部分とは全体のミニアチュアではないし、全体と等しい本質をもつものでもない。だが、神話的思考では、部分は全体を象徴し、全体がもつ力をすべてもつことができる。(p.179)

うっそうとした森林という環境では、距離はどのような意味をもつのだろうか。(中略)多雨林で生活する人びとにとっては、空間とは複数の場所がつくる目の細かな網のようなものであって、そこには全体を包括する構造は存在しないのである。同じことは、時間についてもいうことができる。(中略)時間は知覚された距離と同様に浅く奥行のないものであって、ピグミー族は、過去の系図にも未来にもあまり関心を示さないのである。(p.212)

距離は、客観的な領域に属している。ホピ族は、距離から時間を抽出することはしない。したがって、かれらにとっては同時性の問題は実在しない。(中略)距離は客観的な領域に属しているのであるが、このように、完全に客観的な領域に属しているわけではない。客観的な水平面は、観察者から遥か遠くへ延びていき、ついには、もはや細部を知ることのできなくなるところへ到達する。そこは、客観的な領域と主観的な領域が接する境界であって、比喩的な言い方をすれば、時間を超えた過去であり、神話のなかで語られる国なのである。(p.214)

また、巻末のオギュスタン・ベルクによる日本語版解説は、本書の歴史的位置づけを明らかにしているという意味で、大変興味深かった。その中で語られている「今日の我々」とは、まさしく2000年代のぼくたちのことを指し示しているのではないだろうか?

そういう両義性に迷わされないように、我々は、本書が書かれた1970年代半ばの情況を思い起こす必要がある。それは、建築や環境整備論において、近代主義に代ってポスト・モダンの台頭の時期であった。トゥアンの問題提起に翻訳すると、それはspace主義への反撥、place主義の台頭という転換期であった。いうまでもなく、均衡のとれた生活環境には空間(自由)も、場所(安全)も必要である。人間の環境には、楽園への回帰願望を叶える面も欠かせないし、逆に理想郷への道を拓く面も欠かせない。後者をもっぱら押し付けようとした近代主義に反応して、本書が前者に比重を与えたことには歴史的な当然生がある。(中略)同時に、無味乾燥な環境を産んでしまったspace主義は今日でも終焉下とはいい難いが、"place"だけを唱えると、近代都市計画が陥ったのとは対称的な行き詰まりが待っていることも、今日の我々は知っているのだ。(p.410)

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by tzib | 2006-09-20 23:20 | resource
隠喩としての建築
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隠喩としての建築』を読了。基本的に難解で、半分以上理解できたのか自信がない。しかしながら、後記に語られているコールハースという「現象」の歴史的な位置づけの箇所からは、文字通り目が覚めるような刺激を受けた。ぼくが今までに読んださまざまなコールハース解釈の中では、ダントツでナンバー・ワンである。

このようにコールハースは資本主義のグローバリゼーションを肯定する。しかし、それは必ずしも、彼が現実に資本主義を肯定しているからではない。むしろ、彼は資本主義に反対なのである。とはいえ、資本制経済を制御するいかなる企てにも希望をもつことはできない。その結果、彼は、資本主義的経済を加速的に発展させてそれが内部から崩壊するに至るようにする、という考えをもったように思われる。メトロポリスや建築ブーム(バブル)に対する彼の逆説的な称賛には、そのようなイロニーが隠れている。

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by tzib | 2006-09-10 23:10 | resource
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